『Cute』が、国際的にどう扱われているのか ~Stacey Dooley の一件から想ったこと~


2017年2月28日、BBC three(英国放送協会(BBC)のインターネットテレビチャンネル)の番組『Stacey Dooley Investigates』の一エピソードとして、番組のパーソナリティ、Stacey Dooley が日本での「若者への性的搾取」を取り上げた『Young Sex For Sale In Japan』が放映され、日本のネットユーザーを中心に問題視されました。

このStaecy Dooley という人は、主に途上国の児童搾取の問題を扱ってきたジャーナリスト。カンボジアの女児への性的搾取などのほか、コンゴの少年兵問題なども扱ってきました。「児童搾取を許さない」という立場は、筋金入りです。

さてStaceyは番組の冒頭、秋葉原へ行き「Cute」に満ちている、と断じます。ここに文化的な差異が表れています。今回のブログでは、この「差異」を軸に考えてみたいと思います。

自分はインド、タイ、ネパールと住んで、それぞれの国や文化圏で(キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教それぞれの文化圏に日常的に触れて)「性」「女性」に対する男性側の目線なども観察していたのですが、そのなかで感じたのが、どうも「Cute」(可愛さ)と「Beauty」(美しさ)の二つに対して向けられる視線・感覚が、異なることです。というのも「Cute」は「子どもっぽさ」を、対称的に「Beauty」は「大人っぽさ」を連想させるため、まったくの別物とみられるからです。
そこから「Cute」に対して同様の視線を向けるのは「悪しきこと」、いっぽう「Beauty」に対して性的魅力を感じるのが「当然」といった感覚が生じます。例えばイスラム文化圏では「髪」は「Beautiful」「性的魅力がある」から「隠す」。逆にいうとイスラム圏では女性の魅力は「Beauty」に対して感じるのが当然ということになります。インド映画でも「Cute」な女性キャラクターが受けることはほとんどありません。いっぽうタイでは「Cute」を受け入れる文化的土壌がありました。

そして「萌え」を中心に日本のマンガ・アニメのキャラクターは、すべてとは言いませんが「Cute」寄りではないか。自分はそれが悪いとはまったく思いませんが、「Beauty」に軍配を上げがちなグローバルな傾向とは差異があり、食い合わせが悪いのではないか。

実際のところ、自分は諸国を回っていて、「Cute」に性的魅力を感じることが社会的に認容されるのは、東アジアおよび東南アジアに限られるように感じてきました。人種という捉え方は危ういかもしれませんが、モンゴロイドの居住地域と、ほぼ重なります。
モンゴロイドは白人あるいは黒人からすると「年齢よりも若くみられる」とは、よくいわれます。「Cute」にみられがちということでしょうか。インドでも、北東地域(ミャンマーとの国境地帯)のモンゴロイド(典型的なのは「ナガ族」など)の女性に対し男性が強烈な性的関心を寄せる事実は過去から指摘されてきたところですし、いずれにせよ「若く見える」男女に性的関心を寄せることへは、モンゴロイドの文化圏以外からは非難めいた言動が寄せられてきました。
こういうとナショナリストかリージョナリストのようですが、文化圏別に異なる文化のあり方や差異から生じる「Cute」(特にモンゴロイドの文化のなかの「Cute」)を丁寧に解きほぐさず、グローバルな「Beauty」優先の立場からただ非難、というのは、残念なあり方であるように思います。しかしながら「Cute」を語るときは、この差異を意識しなければならない時期になったとも感じます。

最後に指摘しておきたいのは、BBC Three は過去、といっても2007年になりますが『Japanorama』という、日本のサブカルチャー(オタク的なもの、性的なものも含めて)を多角的に紹介するミニシリーズを放映したことがあります。別にBBC Three として、あるいはBBCとして、日本のサブカルチャー全体に敵意を持っているわけではないということです。
この『Japanorama』のように、文化の違いや差異を驚き楽しむのが、本来の文化交流の在り方ではないかと思うのですが…。

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参考「Japanorama」ウィキペディア日本語版
https://ja.wikipedia.org/wiki/Japanorama